相模原エリアの景観資源やまちづくりについて
はじめに
相模原エリアは、山や川・湖など自然に恵まれた地域であるだけでなく、鎌倉街道や甲州街道など古くからのいくつもの道があり、また、近年の発達により工業団地や主要なまちが形成されています。
このページでは、これまでの委員会の活動の中で見つけ出した景観資源やまちづくり情報をご紹介していきます。
いろいろな場所のビフォーアフターをみてみる
橋本駅南口
相模原市では、1983年(昭和58年)の「相模原市商業振興ビジョン」の中で、相模大野・相模原西門 橋本の3地区を市の中心商業地と位置づけ整備を進めました。中でも、南北のターミナル駅である 相模大野駅と橋本駅の周辺での、大規模な商業核の開発が進みました。
橋本駅北口の駅前広場の周囲には、木造商店や低層の商業ビルが建ち並んでいましたが、 再開発事業が終了した2004年(平成16年)には駅前広場の2階部分にペデストリアンデッキが建設され、商業施設の大型化・高層化が進みました。
さらに、2027年(平成39年)にはリニア中央新幹線が開通して新駅が開業予定です。
相模原駅北口
相模原駅が開業したのは1941年(昭和16年)で、木造駅舎は1996年(平成8年)まで使用されました。
1998年(平成10年)に駅ビルと駅前広場が整備され、現在のペデストリアンデッキも作られました。
南口バスターミナルは、当初は同一平面にロープや白線などでのりばが区切られていましたが、橋上駅舎に改築されたのと同じ時期に現在の施設となりました。
相模陸軍造閉兵廠は戦後在日アメリカ陸軍相模原補給廠となったほか、陸軍兵器学校は現在の麻布大学の場所にありました。
また、陸軍通信学校は現在の相模女子大学の場所であるなど、戦時の施設が大きく関係している施設や場所が市内各所に存在しています。
淵野辺駅北口
淵野辺駅は横浜線開通と同時に開業し、北口のみが開設されました。
駅前には商店街が形成され、2003年(平成15年)には青山学院大学と桜美林大学PFCが進出して駅周辺整備が加速しました。なお、横浜線は明治41年(1908)9月23日に開通しました。
横濱鉄道会社により3両編成で1日7往復を運転し、当初は、東神奈川・小机・中山・長津田・原町田・淵野辺・橋本・相原・八王子(明治22年8月現・中央線開設)の9駅で単線にて開業しました。
横浜線は、橋本駅から町田駅まで直線になっています。これは、大正時代に広軌レールにおける走行試験テスト線も兼ねていたためです。
これによりテストされた広軌レールの情報が高速鉄道(新幹線)の技術で活かされています。
こもれびの森
1971年(昭和46年)に指定された相模原近郊緑地保全区域のうち、特に自然環境の良好な大沼・ 大野台地区に広がる73haの緑地が1973年(昭和48年)に特別保全区域に指定されました。
市民からは「木もれびの森」の愛称で呼ばれており、一部は相模原中央緑地として公園整備され、市民に開放されています。
また、相模緑道沿いは、約2kmに渡って雑木林のみち並みを形成しています。
木もれびの森の辺りは火山灰が厚く積もっているので、土地がやせていて、宙水のあるところ以外は井戸の深さが30mもありました。
※宙水:地表から10m以下の浅い地下水
かつての雑木林はよく管理されていて、冬には落ち葉かきが行われ堆肥に、伐採されたクヌギやコナラは薪や炭の原料になりました。
相模大野駅北口
相模大野駅周辺では、1972年(昭和47年)から31.9haの地域で土地区画整理事業を進めてきました。
1990年(平成2年)の伊勢丹百貨店(延面積29,500m²、その後37,305m²に増床)以降、百貨店や専門店ビルなどの大型商業施設が相次いで開業しました
1996年(平成8年)には駅ビルが新しくなり、また相模大野駅西側地区第一種市街地再開発事業により2013年(平成25年)に bono(ボーノ)相模大野が開店しました。
また、かつての相武台陸軍病院は戦後米軍医療センターとなり、返還の後、現在グリーンホール相模大野となっています。
昭和橋
改修前の旧昭和橋は、昭和の初めに竣工し新時代を象徴する橋ということで命名されました。
16径間鋼板桁橋といわれる形式が採用され、全長約343mの長さがありました。
1931年(昭和6年) 完成したのち、1992年(平成4年)に改修されています。
また、新昭和橋は上溝バイパスの開通に伴い、1976年(昭和51年)に命名されました。
昭和橋を渡り町田に向かう県道52号線は、当麻道と呼ばれる通りでした。この辺りは当麻宿と呼ばれる古い宿駅で、当麻宿が相模川を渡る「当麻の渡し」であり、戦国時代より交通の要でした。
近世になるとこの道は大山道ともなり、地元では埼玉往還と呼ばれています。
上溝商店街
写真は上溝駅に続く道沿いの風景で、奥に見える橋が相模線の上溝ガードになります。
昔は木造の家が多く、ボンネット式のバス・トラックが走っていました。現在は道路が拡幅整備され、鉄骨や鉄筋の建物が増えています。
昔の市域で最も賑やかな街だった上溝は、毎月市が開かれていました。上溝を南北に縦断する県道相模原茅ヶ崎線は「埼玉往還」ともいい、また上溝では「表通り」と呼ばれていました。
多くの商店のほかに、「お茶や」とか「ざるそば」と呼ばれた料理屋や、いくつもの旅館もありました。
津久井湖周辺
津久井湖は昭和40(1965)年、純揚水式の城山発電所建設の下池として誕生した「城山ダム」の人工湖で、神奈川県、横浜市、川崎市、横須賀市の共同施設になっています。
城山ダムは、高さ75メートルの重力式コンクリートダムであり、目的は相模川の洪水調節、横浜市・相模原市・川崎市及び湘南地域への上水道・工業用水の供給になります。
周囲に広がる「津久井湖城山公園」は、桜の名所としても知られており、また、秋には紅葉、冬にはわかさぎ釣りなど四季折々の表情を見せてくれるスポットで、県内でも有数の景勝地として人気があります。
道志橋
相模川の支流である道志川を渡る橋で、川底から橋床まで100mある高層橋になります。そして明治30年に横浜市が道志川より取水が始まりました。
道志ダム・奥相模湖(相模原市緑区 青根・牧野字長又)は、神奈川県企業庁が経営する発電および水道取水用ダムで、1955年 (昭和30年)に造られました。
横浜市水道局 青山取水口・青山水源事務所(相模原市緑区青山)は1897年(明治30年)に設けられた横浜市水道の取水口で、当初は約4 km下流の相模原市緑区三井に取水口がありましたが、自然流入により取水できる同地に移され、現在も稼働しています。
小原宿本陣周辺
本陣とは、江戸時代の初め、参勤交代が行われるようになって、大名行列をしながら江戸と領国の間を往復する時などに、大名等が泊まる宿のことをいいます。
小原宿本陣は、神奈川県下26軒あった本陣で現存する唯一の建物で、定紋のついた敷居の高い玄関がある、純日本風の豪壮な建物です。平成8年2月13日、神奈川県教育委員会より神奈川県重要文化財に指定されました現在の建物の建造年代は定かではありませんが、およそ200年経過しているものと思われます。
この周辺は国道20号線に残る、旧甲州街道の宿場として栄えた小集落の風景がいまも約50戸程度の集落として残っています。
公園や広場をみてみる
麻溝公園と相模原公園
相模原麻溝公園は1985年開園、周辺面積約10.6haの敷地があり、高さ55mの展望塔があります。園内は豊かな緑におおわれており、動物広場には多くの生き物が飼育されています。
隣接して県立相模原公園(1979年開園)がありますが、その敷地面積23.8ヘクタールと合わせると 69.1ヘクタールにも及ぶ非常に大きな公園群となっています。花壇と芝生も隅々まで美しく整備 され、1992年(平成4年)10月には「第9回全国都市緑化かながわフェア」の会場にもなりました。
公園の周辺には、相模原市立総合体育館や女子美術大学があります。
団地や住宅地をみてみる
相武台団地
人口急増に伴い市内各地で団地が建設されました。
相武台団地は1968年(昭和43年)に建設され、2年後に建設された第二団地と合わせて1150戸が入居しました。
東京駅から40キロ圏内に位置する相模原市では、1965年(昭和40年)からの10年間で20万人もの人口が増えました。1975年(昭和50年)に発行された相模原市財政白書は、副題の「こども急増 びんぼうはくしょ」で話題となりました。
現在、相武台団地での高齢化率約52.6%であり、住宅団地型既存住宅流通促進モデル事業によりさまざまな再生の取組みが行われています。
※ 住宅団地型既存住宅流通促進モデル事業:国土交通省が住宅団地における既存住宅の円滑な流通や賃貸化等の促進を目的として行っている補助事業。
作成随時更新
最終更新改訂:2020.7.19